白く艶やかな磁器と、温もりのある陶器。
原料も製造方法も異なる磁器と陶器を、会津本郷では江戸時代からともに焼いてきました。
じつは、これはとても珍しいことなんです。

磁器と陶器がある窯里

日本の陶器の始まりは平安時代で、おもに東海地方を中心に発展しました。
一方、磁器は九州・肥前で江戸時代初期に始まり、江戸後期になって各地で盛んになりました。
会津本郷は、江戸前期に陶器を焼き始めた歴史ある窯里であり、さらに東北地方で最も早くに磁器焼成を成功させて、東北随一の「陶・磁器」産地となりました。その伝統は、現代に続いています。本郷地区の常勝寺には陶祖・水野源左衛門と磁祖・佐藤伊兵衛を祀る雨があり、毎年9月16日に陶祖祭が執り行われます。

会津藩と会津本郷焼

会津における「やきもの」の歴史は、会津若松城主・蒲生氏郷が播磨国から職人を招き、若松城改修のために瓦を焼かせたのが始まりと言われます。1593年、桃山時代のことでした。会津本郷で陶器を焼くようになったのは、江戸時代の1654年。会津藩主・保科正之が瀬戸出身の陶 工・水野源左衛門を招致し、本郷村で陶器生産が始まりました。会津本郷焼は落の保護を受け。技術も改良されました。 江戸時代後期に各地の藩で磁器 生産の気運が高まると、会津でも磁器を焼くため、陶工・佐藤伊兵衛が磁器産地を回って技法習得を試みます。そして1800年に磁器焼成に成功。陶器と磁器の二本立てで、幕末時の陶磁器業者は59戸を数える大きな産地に成長しました。明治に藩は無くなりましたが、江戸時代に使われてきた窯や道具は陶工たちへと受け継がれました。会津本郷焼は、窯を開き、守り、育ててきた会津藩と、深い繋がりを持っているのです。

大正時代の大久保陶石採石場

会津は戊辰戦争で甚大な被害を受け、本郷地区の陶磁器生産も絶えてしまいました。そこから本郷の人々の努力と熱意で復興。明治時代の海外輸出ブームにも乗って、活気ある窯里となりました。ところが1916年、町の半分近く工場や住宅も200 棟が焼失する大家事が発生。その後、再び陶磁器産地として復更しました。宗像窯の手の山に保存される登り窯は大きく、大量の製品の焼成が可能です。2, 30 基あったこうした登り窯ですが、現在使用できる形で残るのはこの一つだけです。また、会津本郷の景に欠かせない用水路は、もともとは農業用水として引かれたものを町中に水路を張り巡らせて生活用水としたもので、大火の後には防火用水としても有効に使えるよう備されました。

会津本郷焼は暮らしと共に歩んできた。

会津若松城改修にあたって蒲生氏郷が焼かせた黒瓦は、冬に凍って割れやすい脆弱さが難点でした。寒い会津の冬に耐える瓦の開発は大きな課題となりましたが、保科正之のとき、水野長兵衛によって成功。これはガラスの膜である釉薬が掛けられた赤瓦で、水が浸みず凍らない、寒さに強いものでした。城の瓦として、また町中の立派な家屋敷の屋根瓦として好んで使われるようになりました。明治の廃城で取り壊された鶴ヶ城の天守閣は、昭和40年に復元再建されました。この時は黒瓦でしたが、平成23年の大改修で幕末時の姿の再現を目指して赤瓦に葺き替えられました。本郷地区ではすでに大量に瓦を生産できる窯はないため、他県で生産した瓦を使用していますが、会津の城と城下の屋敷を豪雪から守った本郷の赤瓦、現在の鶴ヶ城が物語ります。

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